人を嫌ったり、憎んだりしたことはあるだろうか。
わたしは、ある。今でも憎んでいる人がいる。
自分の心を根こそぎ切り刻んで、ボロカスに捨てていった人のことを、どうして許せよう。
今でも本気で「死ねばいいのに」と思う。
最初は、この自分の感情を「感じてはいけないもの」「悪い感情」だと思っていた。
なんとか自分の中から消してしまいたい、そう思っていた。
でも、心に巣喰う怨嗟の炎は消えることなどなかった。
そんな自分が苦しくて、苦して。
随分長いこと苦しみ続けていた。
憎しみの炎が燃えさかってしまった時の苦しさといったら、ない。
「死ねばいいのに」と思わず何回呟いただろう。
そして同時に、激しい苦しみを味わい続けた。
楽になりたい。 幸せになりたい。
こんな恨みつらみにまみれた自分はイヤだ。
思えば思うほど、苦しみは変わらなかった。
人生最悪の期間が続いた。身体も壊しかけた。
そこから、今までよりも真剣に自分の心と向き合うことを始めた。
そして気がついたこと。
「相手を恨む気持ちや、嫌いという気持ちが苦しみを生むのではない」ということ。
そんな感情を持ってしまった自分がイヤでイヤで。
自分がそんなひどい人間だと認めたくなくて。悪い人間だと認めたくなくて。
慌てて「いい人」になろうとするのだけど、できなくて。
その落差が「苦しみ」を生んでいるのだ、という事に気がついた。
自分の中に生まれる感情の中で、「気分のいいもの」「ポジティブなもの」だけを、「いてもいいよ」と認めていた。
一方で、人をバカにする気持ちや、嫌う気持ち、文句を言いたくなる気持ちなど、ネガティブなものからは目を背けていた。
それは確実に自分の中の1ピースであるのに、だ。
スピリチュアルで言われるような「言い気分でいると、いいことが起こる」の理解が浅かった。
人間の中には、全ての感情がもともと詰まっている。
どんな感情が起こったとしても、その感情の価値は等価。いいも悪いもない。
ましてやそんなに多様な感情を持てる自分が、「イヤなヤツ」「価値のない人間」のはずがない。
そのことに気がついてから、湧いてくる感情はただじっと見つめる事を繰り返した。
感情に飲み込まれていくと苦しくなる。
今自分は何を感じていて、何を考えているのか。
それをじっくり見つめて、「あぁ、そうなんだ」と理解する。
その感情がわき上がっていることに、OKを出す。
これを繰り返した。
すると、少しずつ、少しずつ、怨嗟の炎は勢いを弱めていった。
認められると、消えていく。
感じて、手放す。 感じて、手放す。
この繰り返しで、自分の感情はだんだん楽な方向へと向かいだした。
心理学的に言うと、「内観」と「自己受容」。
それを繰り返した時期は長かったが、おかげで前より随分楽に生きている。
これだけでも随分な収穫だったのだが、ある日突然さらなる「気づき」がやってきた。
「恨み」の感情も、「愛」であるということ。
「恨む」という事は、それだけ「大好き」という事なのだ。
そこに「愛」があるということ。確実に、あるということ。
それがコインの裏表のように、裏の「恨み」という感情から見えてしまっただけの事なのだ。
感情は全てワンセット。コインの裏表のようにつながっている。
その根底には必ず、一つの例外もなく、「愛」がある。
「恨み」を持ってしまうほど、大好きだった。愛があった。
そういうことなのだ。 それに気づいたとき、グルッと知覚が逆転したかのような衝撃を受けた。
あぁ、そうか。 愛だったんだなぁ。
それだけが腑に落ちて、染み渡っていった。
きっと世界はそんな仕組みで出来上がっているんだろう。
「大好き」も「恨み」も、両方味わってみたいから人は生きてる。
そう考えると、とても気が楽になった。
今も、怨嗟の炎はふいに顔を出す。自分でもびっくりするようなタイミングで。
それは、生活のちょっとした一コマに隠れている。
洗濯物を干す時、人との会話中の一瞬、夜の帰り道。
だけれど、今はそれをしっかり受け止めて、手放すことができる。
自分の「愛」が、形を変えて訪ねてきた、それだけだから。
そして、クソのような最低のあの人のことを、「ありがとう」と思えるのだ。
ひょっとしたら、あの時のあの行動も、「愛」だったのかもしれない。
最近はそんな事を想い始めている。
今、ネガティブな感情に支配されて苦しいあなたへ。
そんな感情を抱いている自分を、まずは認めてあげよう。
そしてできれば、そのコインの裏側に、気づいてみよう。
きっと、きっとすごい宝物がそこにはあるから。
恨み続けて、いいのだ。それもまた愛なのだから。
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